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島原手延べそうめんの歴史(ルーツ)について

島原手延べそうめんの歴史についての文献が過去のデータにありましたので、ご紹介の意味を込めてお知らせしたいと思います。

島原手延べ素麺(そうめん)のルーツ

長崎ウエスレヤン大学/学長:森泰一郎

そもそも素麺は、どこから来たのか。
そうめんの名が文献に見られるのは、室町時代からのことであるが、その文字から見て、中国食の一つであろうとして誤りがない。
そうめんとは小麦粉に塩を入れ、油でこね、だんだん細く延ばし糸のようにしたものを乾かしたものだとした江戸時代の作り方も中国から伝えられたと言う考えかたの方が確かさを思わしめる。
しかし、何時ごろ中国から伝わったものかは明らかではない。室町時代の文献に初めて見られるのに、この食べ物自体は、既に平安時代からあったことを考えると中国からの伝播の時期を決めることは難しい。しかし、鎌倉・室町時代に渡宋・渡明した仏僧が伝えたものの一つであろうと思われる。
(日本歴史辞典)

「日本歴史辞典」はあくまで慎重な記述で、「そうめん」の起源を論じている。日本の食物史では定評のある渡辺実氏による「日本食生活史」(吉川弘文館、昭和39年)に従えぱ、上記の事情はこうである。

奈良時代の「正倉院文書」の税帳、銭用帖に加工菓子(主食と考えてよい)として、大豆餅、小豆餅、煎餅(いりもち)、環餅(まがりもち)、おこしごめ、むぎかた、索餅 (むぎなわ・さくべい・むぎはな)等が記載されている。索餅は小麦粉をこね、塩を入れ固めて、うどん状にしたもので、儀式や信仰行事などの特殊な場合にかぎって用いられた。907年(延喜7年)に藤原時平が奉勅した「延喜式」(927年・延長5年完成)にも宮中の元旦節会の三献の儀の中にも索餅が見られる。

931~8年(承平年間)に書かれた「和名抄」(源順編のわが国最初の分類体の漢和辞典)にも唐菓子として索餅(むぎなわ)の記述がある。これによると、麦粉を固めてねじり、縄のようにしたもので冷そうめんの類となる。この時代、節会の晴の御膳(八盤)にものった。さらに、後になると貴族の加工葉子であったものが、「今昔物語集」の時代(1114年)には、平安京で索餅が売られている話(索餅が蛇になる)から大陸風の小麦粉の利用が庶民にも広く浸透していったことがわかる。「延喜式」の平安京の市に関する規定にも、索餅が専売的に売られていた記述がある。「宇治拾遺物語」(125年)の時代になると煎餅、環餅、おこしごめ、索餅はさらに一般に広まっていった。

鎌倉時代に入ると、栄西、道元によって禅宗が広められ、こうした新仏教に帰依する大名も多く、精進料理が発達した。「庭訓往来」(室町初期の往来物、上流武家の心得を12ケ月に分け手紙形式で綴ったもの)は、鎌倉時代後期の武家の生活を理解するのに良い資料であるが、それによると、唐菓子には、従来のものの他、羊羹、饅頭、索麺、きし麺、温餅が加わっている。文献的に言えば、索麺の表現は、室町時代から始まる。

室町後期の「尺素往来」・「撮壌集」には、麺類としてうどん、碁子麺(きしめん)、索麺、冷麺、胡蝶麺の記述があり、その作法が記されている。

安土・桃山時代に入ると、1527~76年(大永~天正年間)山科言継の日記である「言継卿記」に素麺の記述が詳しく出てくる。

江戸時代に入ると、「日本山海名産図会」(1754年)に「さうめん」の産地の紹介があり、「日本諸国名物尽」には、産地が紹介してある。

1959年(安政6年)大蔵永常の有名な農書「広益国産考」(今で言う「村おこし」の指導書)が出版された。大蔵は、「素麺」製造を「村おこし」の方法として奨めている。「さうめんは、摂津の兎原郡の灘で製造されたものが江戸に出荷されて、取引量が非常に多い。諸国では夏にだけ製造し、秋や冬には製造しないが、灘や三輪のように年中製造すれぱ特産物になろう。」(同書巻一)因みに、大蔵は大分日田の産である。

 

上記の文献をまとめると「そうめん」に関する記述は凡そ、下記のようになろう。

奈良・平安時代・鎌倉時代前期・・・加工菓子としての『索餅』(さくべい、むぎなはな)時代が下るに従って大衆化していった。

鎌倉時代後期・・・『索餅』、『索麺』(さくめん)の記述

室町時代・・・索麺』(さくめん)

安土・桃山時代・・・素麺』(さくめん)

江戸時代・・・『素麺・さうめん』の併用

 

島原手延べ素麺のルーツに関する『定説』を点検しよう。

『定説=讃岐国・小豆島伝播説』の要旨とその論拠

「1638年(寛永15年)4月13日・幕府は遠江国浜松城主、高カ摂津守 忠房に島原に移封する旨の命を下した。高カ摂津守 忠房は徳川家譜代の臣である。島原半島は、ここに譜代大名領として再出発することになったのである。」
(長崎県史・藩政編 P.263)

しかし、当時の島原半島の農村は荒廃しており、その復輿は急務であった。4万石の内、2万2干石程が「亡所」であったと伝えられている。(島原市本光寺資料)人口の増加策、農業振輿策のため「荒れ地」を対象に「作取」を実施し・同時に幕府は熊本・鹿児島両藩に対して、天草・島原に自領内の農民をいくらかづつ移住させるよう命じた。鹿児島藩では、1万石に2戸の割合(天草に30戸<男女155人・馬49匹>、島原に30戸<男女148人・馬100匹〉、熊本藩では、1万石に2戸の割合であった。佳賀藩・大村藩でも1万石に2戸の割合で移住させている。その他、幕府直轄領からも移住させており、それらの移住者を「御公儀百姓」として他と区別した。幕府直轄領の内讃岐国・小豆島からも移住している。1649年(慶安2年)口之津早崎名に高橋家が移住する。
(長崎県史・藩政編 P267~9)

「土庄町の笠ケ滝から七条氏が南有馬(吉川上場)へ、池田町の中山から八木氏が北有馬へ、内海町の坂手から高橋氏が口之津へ、田の浦の漁民20戸が南串山へ移住し、彼等の中にそうめんを伝えるものがあったとされる。」
(隈部守「4大産地の生産体制と市場流通システム」<四季の糸ブランド確立への道>島原手延素麺協同組合連合会 1982.3.31所収)

幕府直轄領の讃岐国・小豆島は、1615年(元和元年)に直轄領となり1838年(天保9年)には津山藩領となっている。讃岐国・小豆島の史料によると、素麺の製造が始まるのは1598年(慶長3年)となっており、奈良県三輸から伝播した一拠点として考えられている。
(隈部、前掲書)

つまり、三輪→小豆島→島原の伝播系統を示す状況史料と論理は、こうして形成されている。しかし、隈部氏自身は「産地の起源、形成は江戸時代の末を発展期としている他は、資料からは確証できない。」
(前掲書)と述べている。

つまり、島原の乱後、人口減少等による島原半島の農村は荒廃しており、その復輿事業として様々な地域から移民政策を行ったことがわかると思います。その中で移民の一族である高橋家などによって手延べそうめんが伝播されたという説が成り立っているわけです。

この手延べそうめんの伝播説には諸説あり、もともと島原の乱前から中国から手延べそうめんは伝わっていたとする説もあります。

 

現在でも、南島原市内に高橋製麺という名の製麺所はたくさんあります。(よく他の高橋製麺と間違えられることもありますが・・・)

南島原で”高橋さん”といえば古くからのそうめん屋さんであることがこのことからもわかります。